2008年6月25日水曜日

連載短篇小説「月曜の昼下がり」

目次

その1 散髪屋
その2 冒険
その3 ジュリーの家
その4 引っ越し
その5 テニスの試合
その6 北欧の「踊る乙女」
その7 ミツバチの英知


その1 散髪屋

年金生活者になった半年前(昨秋)以来、トムは床屋通いを2カ月毎にすることに決めた。それまでは、自宅から歩いて10分位の所にある雑貨屋の香港系のおばさんがやっている床屋に10年近く、週末の午後、散髪のため通っていた。そこの床屋では、散髪代が14ドルで、トムはいつもコルゲートの歯磨きチューブをそこで2箱だけ買って、チップを含めて20ドル、おばさんに払うことにしていた。

しかしながら、最近になって、この雑貨屋にタバコを買いに訪れる貧相な客が日増しにふえ、散髪が終わるまでに、数回にわたって中断されるケースが頻繁になった。近くに低所得者(大部分はアフリカや東南アジアからの難民、あるいは老人たち)を対象とする高層アパートが立ち、「買物客の相手をすぐしないと、待たせている間に店の品物を万引される恐れがあるのよ」と、おばさんはいかにもすまなそうな表情で謝るのだった。この愛想のよい50代のおばさんは独りで、95歳を過ぎた父親を養っていた。彼女には同情しつつも「そろそろ別の床屋を開拓する潮時が来た」と、トムは秘かに考え始めるようになった。

そんなある日のこと、トムは自宅とこの雑貨屋の間に広がる小さなアジア系の商店街の奥に、新しい小じんまりとしたヘアドレッサーの店が開店しているのを偶然に見つけた。店先に「散髪代12ドル」と書いてあった。安い! これがトムの第一印象だった。入口からガラス越しに店の中を覗いてみると、雑貨は全く見当たらなかった。散髪専門店だった。その日は偶々日曜日で、閉店していた。平常営業は火曜から土曜まで、月曜は午前中だけ開店となっていた。

それから一カ月ほど経ったある日のこと、トムはそのヘアドレッサーの店を散髪のため初めて訪れた。店の主人は比較的若々しい品の良い女性だった。30代後半から40代前半と思われた。「私の両親は中国系で、戦火を避けてベトナムから一家そろって、ここ豪州に移民してきました」と、トムの散髪をしながら、その女主人は説明してくれた。彼女には、メルボルン大学の工学部に入学したばかりの独り息子がいるという。どうやら母子家庭のようだ、という印象をトムは感じ取った。「両親の世話は、幸い年上の兄弟がやってくれるので、私は息子の養育に専念しています」と、そのドレッサーがトムに言った。

トムは、その晩、自宅で15年近く一緒に暮らしている娘夫婦に、そのヘアドレッサーの話をした。娘いわく「何時か、その方を我が家のお茶にお誘いしたら?」。トムは元々そういう積りで、この話をしたわけではなかった。しかしながら、適当な機会があれば、家に彼女を招待してもいいかもしれない、と思った。少なくともトムには好感の持てる女性だったからだ。トムの住んでいる商店街の近くは、地価が最近かなり急速に上がりつつあり、彼女自身はメルボルン市の近郊にあるもっと土地の安い場所に家をみつけて住み、車で片道20ー30分、息子の大学への通学路線のちょうど延長上にある自分の店まで、通勤しているそうだ。

トムの娘はもともと看護婦だが、今は専ら老人ホームで保護士の仕事をやっていた。そして、夜勤の日が多かった。面白いことに、夜勤のほうが常勤(昼間勤務)より給料が高いが、実質の仕事量は逆にずっと少ないそうだ。しかし、(人間はフクロウではないので)夜勤希望者の数は極めて少なく、彼女は実益も兼ねて、ほとんど夜勤ばかりを引き受けているようだ。従って、娘は平日の昼間、自宅の2階でほとんど寝ている。週末だけは珍しく、昼間も起きていて、買物をしたり、夫や友人と一緒に、映画やオペラや食事などの社交時間を楽しんでいる。年金生活者のトムは、自宅で専ら本を読んだり書いたりして、日々を過ごし、通常の社交イベントには余り携わらないようにしている。強いて言えば、トムの「社交」は専らインターネットを利用した電子メール上の通信に限られている。トムは、それを「魂」の社交と呼んでいる。

さて、この新しい店で散髪をやってもらうようになってから半年ほど経ったある小春びよりの月曜の昼ごろ、トムはこの店を訪れた。散髪が終わると閉店時間の一時近くになっていた。12ドルを彼女に手渡してから、トムがこう訊いてみた。
「今日は御天気が良いので、ボタニカル・ガーデン(市内の植物園)を散歩がてら、
ランチでも一緒に食べませんか? もし午後、特に予定がなければ。。。」
店の主人は、床に散らばっているトムの髪の切れ端をホウキでゆっくりと掃き集めながら、
「そうですね、今日は息子の帰りが遅いので、夕食近くまで、特に予定ないので、ご一緒してもよろしいですよ」
トムは久し振りに(20年ほど「冬眠」を続けていた)胸のときめきを多少感じた。
彼女の車は、真っ赤な小型のフォードだった。トムは主義で、車を運転した経験が全くなかったので、助手席に座った。

市内の中央を流れるヤラ川の対岸にその巨大な植物園はあった。市電を利用すれば乗り換えを含めて30分ほどかかるだろうが、車なら恐らく15分くらいで到達できるだろう。昼過ぎだから、道路が余り混雑していないからだ。植物園に直進する前にトムの自宅にちょっと寄ってもらった。店から歩いても5分、車なら1、2分だった。赤レンガ作りのビクトリア調の2階屋で、建てられてからもう125年以上経っていた。15年ほど昔、住宅ブームがちょうど底をついた頃に、娘の婚約祝いに、トムと娘の許嫁(婚約相手)とが半分ずつ出資し合って手に入れた掘り出し物だった。以来、住宅景気がどんどん回復し、現在の市価はその時分の4倍近くになっていた。

家の前と裏に、娘の夫が丹念に手入れしている小さな花壇がある。玄関を入ってすぐ右手にトムのいわゆる「洞穴」(寝室兼書斎)がある。廊下の先に居間、その奥に台所とシャワー(浴)室がある。居間の手前に、娘夫婦が住んでいる2階へ通ずる階段がある。2人が家に着いた時間帯には、娘は2階の寝室でまだ眠っていた。

月曜は3時頃に娘が起きてきて、近所の野外プールで一時間ほど泳ぐのが日程になっていた。そのあと、近所で毎週ダンス(バレー)のレッスンを受けることになっていた。しばらくして、台所の冷蔵庫にしまってあった2人分のフルーツサラダとイングリッシュ・マフィンと飲料水の瓶を手提げカゴに詰め込んだトムが、車の前に再び姿を現した。
「さあ、出かけましょう!」
車のエンジンが始動してまもなく、目的地に向かって、真っ赤な車がまっしぐらに走っていった。

その植物園は、ヤラ河畔に拡がる丘陵全体を占める、入場無料の自然大公園である。入口が全部で10門もある。ジュリーは真っ赤な車を、河畔にあるL(リス) 門の脇にパークした。彼女はその日、真っ黒な上下通しのタイツ(ゼンタイ)に、サングラスという出立ちだった。ジュリーのバレリーナを思せる細身の体にビッタリ合っていた。トムはふだん通り、茶色のやや大き目のシャツにダブダブのズボンをはいていた。やせた身体をそれとなくカモフラージュする少年時代から培った彼独得の「生活の知恵」だった。門をくぐると、緩やかに登る丘陵の道に沿って、青空に向かって天高くそびえ立つユーカリ (ゴム) の並木が続く。その幾つは高さが100メートル近くある。小柄なトムには、巨大なユーカリが、自分の父親のごとくいかにも頼もしく思えた。

丘の頂上近くに、赤や白の椿の花壇が広がっている。ここから、眼下に見える白鳥やカモの群れが優雅に泳ぎ回る大きなひょうたん池に向かって緩やかに傾斜する、広大な芝生が続く。ランチを食べるのに絶好の場所だった。巨大なかしの木の小蔭に、トムとジュリーは向かい合って座り、まず喉の渇きを一口の水で癒してから、マフィンにかじりついた。ちょうど昼どきで、周囲の芝生のあちこちに、若い男女や家族連れや老人夫婦らしい人々が、思い思いにサークルをつくり食事を楽しんでいた。トムにとって、こんな楽しいピクニックは本当に久し振りだった。20年ほど昔、カルフォルニアから、この地に初めてやってきた時に、ある知人の夫人の家族と、この公園にやって来て以来のことだった。

イチゴやメロン、紫色のブドウ、リンゴやオレンジなどで色とりどりに混ぜたみずみずしいサラダを食べ終わると、2人共すっかり満腹になり、芝生を背に並んで横になった。青空がまぶしかった。ポッカリ浮かぶ白い雲が2つ、3つ、南の方角へ静かに動いて行くのを眺めながら、明日はたぶん気温が上がるな、とトムは思った。南半球にあるこの大陸では、北風は内陸の温かい砂漠からの空気を我々にもたらすからだ。やがて、雲の一つがジュリーらしい顔になり、隣りの雲もトムに似た顔に変形して、野山や川や海をいくつも越えて、遠くの不思議な異国へ一緒に旅立っていくような夢を見始めた。

どれぐらいうたたね(仮眠)していたのだろう、トムがふと眼を覚ますと、美しい寝顔をしたジュリーが、脇でまだスヤスヤと寝息を立てていた。彼女の小さな腕時計がもう4時半を差していた。トムは側らに咲いていた黄色い花の雑草を一本つみとり、ジュリーの鼻の辺りをくすぐり始めた。ビックリして、飛び起きたジュリーの表情を、最近手に入れたばかりのデジカメで、バッチリ写真におさめてから、トムはこう促がした。
「もうそろそろ引き揚げないと、夕食の支度に遅れますよ」

愛車でトムをまた自宅まで送ってくれた後、別れの投げキスをしながら、ジュリーはそそくさと、帰宅の途につこうとした。
「ちょっと待って、ジュリー。君の電子メールアドを教えてくれませんか? そのうち、またデートの相談をしましょう」
小さな紙切れに何かが書かれて、トムに手渡されるや、真っ赤な車はたちまち姿を消してしまった。


その2 冒険

その紙切れには、こう書いてあった。
「私はPCを使っていません。店の電話番号は9328ーHAIR」
トムは根ったら「電話嫌い」だった。必要最小限にしていた。自宅にかかってくる電話は大部分、銀行や保険会社などからの勧誘や娘宛てのいわゆる「おしゃべり電話」ばっかりだったので、原則として受話器をとらないことにしていた。しかしながら、ジュリーの場合はどうやら「例外扱い」せざるを得なくなった。

ジュリーは通常、開店時間である9時半よりちょっと前に店に着くように心がけているようだ。しかしながら、偶々ラッシュアワーのど真ん中にひっかかると、10時頃に店に現れることもしばしばあった。
その後かれこれ2カ月ほど過ぎたある月曜の朝、ジュリーが店に顔を出してからまもなく、電話が鳴った。受話器を取り上げると、トムからだった。
「ジュリー、今日12時半頃に散髪を予約をしたいんだけど、開いているかな? そのときに、クリスマス休暇中の旅行についてちょっと相談したいことがあるんだけど」
「オーケー、その時間帯なら今日も開いているわ」

豪州では、もう夏に入っていた。12月の初旬だった。トムは散髪をしてもらいながら、クリスマスの翌日から元旦までの一週間を、メルボルンの南方洋上にあるタスマニア島で、ジュリーと息子のデビットと3人一緒で、島の山々をハイキングしながらキャンピング休暇を楽しみたいというプランを熱っぽく提案してきた。ジュリー一家もトムもタスマニアにはまだ行ったことがなかった。面白そうな冒険だった。メルボルンからタスマニア州の首都ホバート(島の南端に近い)まで、大型フェリー船(7階建ての豪華客船)が出ていて、車もドライブインできるようになっているので、島の中でもあの真っ赤な車を乗り回すことができる。なぜか「車に病み付き」なジュリーには魅力的に見えた。あとは息子のデビットを説得しなければならない。息子とトムが相性よければ、幸いだ。

そこで、次の週末の日曜に、トムの自宅近くにあるフレンチ・レストランで、昼食を一緒に食べながら、3人でその計画について詳しく相談することになった。トムは若い頃から登山のエキスパートだった。欧米で暮らしていた頃は、ロッキー山脈やスイスのアルプスに毎年出かけて、海抜4000メートル級の山々をかっ歩していたものだ。比較的平坦な豪州大陸には、2500メートルを越える山はない(最高峰は標高約2200メートルのコジオスコ山。首都キャンベラの近郊にある、極めてだらだらとした平坦な山で、アルピニストのトムは挑戦する価値を全く感じない)。さて、タスマニアで最高峰はオッサ山。標高約1600メートル。日本の山で言うと、東京の近郊にある丹沢山塊に相当するが、鋸の刃のような頂上稜線が天空に聳えているだけあって、登りはかなり厳しい。

この山は、ホバートの町からバスで1時間のところにあるセント・クレア湖とその80キロ北にあるクレードル山(この有名は登山ルートは「オーバーランド登山道」と呼ばれている)の途中にあるピークである。

メルボルンの夏の暑さが最高潮に達するのは2月初旬である。そのころになると、ふだんはタイツ着用のジュリーも空冷の効くスカートに切り換える。そんなある月曜の昼過ぎ、トムとジュリーが例によって、植物園に出かけた。お気に入りの巨大なかしの木の小蔭でランチを食べてから、芝生の上でしばし昼寝を楽しんでいた。

さて、近くで吠える犬の声にふと眼を覚ましたトムは、ジュリーの寝顔を眺めながら、ちょっといたずら心を起こした。素足でスヤスヤ寝ているジュリーの左脚の前に正座したトムは、その左脚を足首でつかみ、そっと持ち上げて自分の右肩に担ぎ込んでみた。それから、両手でそのスタイルのよい脚を少しづつマッサージし始めた。ふくらはぎから膝、そして太股へ。ジュリーが心なしか気持ちよさそうなため息をもらした。

彼の左手がスカートの下に隠れている両脚の付け根近くに達した瞬間、ジュリーの腰が反射的にぶるっと痙攣した。その弾みで、トムの指先が偶然意外な感触を発見した。あるべき布切れがその部分に感じられなかった! いぶかしく思ったトムは、左手でそっとスカートをめくり上げて、秘密の園を吟味してみた。案の定、すっかりきれいに剃りあげたジュリーの眩しいばかりのビーナスの丘が、あたかも生まれたばかりの赤ん坊のごとく、一糸まとわぬ姿でそこに広がっていた。文字通り「空冷式」だった! トムはその瞬間、ゴクリと生唾を飲み込むと同時に、自身の股間辺りに、にわかにある種の緊張感が増大しつつあるのを感じとった。トムはあわてて、スカートの位置を元に戻し、両手をジュリーの足首に納め、努めて平静を装った。彼女の大胆さに、トムはすっかり肝をつぶしてしまった。やがて、ジュリーが何事もなかったかのように、眼を覚ました。もう4時半過ぎだった。その日の「カンカン」特別ショウは終了し、引き揚げる時間がやってきた。

その晩、トムは寝床に入ってもなかなか寝つけなかった。眼を閉じると、昼間に公園で目撃したジュリーの悩殺シーンが繰り返し彼の脳裏に甦り、熟睡を妨げ続けた。

そして、真夜中に眠りついてから、とうとう無意識に夢精をしでかしてしまった。のちに、その話をジュリーに打ち明けると、彼女はゲラゲラ笑いながら、こう言った。
「トム、年はとってもまんざら捨てた物ではなさそうね。ブリーフをしょっちゅう汚したくなかったら、女性用のブリーフをはいて、厚目のちり紙で息子(ペニス)が当たる部分におむつをあてがえればいいじゃないの。そうすれば、歩いているうちに脇からちり紙がこぼれ落ちてくることはないわよ」

なるほど、女性用には太股が当たる部分にゴムが入れてあり、月経中におむつ代りに当てるタンポン用のいわゆる「ケアフリー」パッドなどをうまく支えているな、とトムはジュリーの奇抜なアイディアに参同することにした。とは言っても、さすがにデパートやスーパーで「女性用のブリーフ」を自分で買う勇気が古風なトムにはとてもなかった。そこで、言い出っぺのジュリーに頼んで「誕生日祝い」と称して、数枚一組で6ドルという特売品を買ってもらった。早速その晩に試してみたが、男子用に比べて肌さわりが抜群ソフトで、すこぶる感触がよかった。以来、トムはこのプレゼントに病み付きになった。

ジュリーは、この一風変わった老人トムとの付き合いを次第に楽しみ始めた。ずっと昔別れた前夫ピーターは飲んだくれで、丸でニコチン中毒者のごとくタバコをひっきりなしに飲んでいたが、トムは酒もタバコも一切たしなまぬいたって健康そうな神士だった。そして、決して裕福とは言えないが、自宅を持ち、年金だけで十分に生活を楽しむ余裕がありそうだ。息子のデビッドが数年経って大学を卒業し、エンジニアとして社会に巣立ったあと、ジュリーには、ずっと一緒に健康的な生活を楽しめる一種の伴侶が必要だった。しかし、ピーターのごとき酒に酔って乱暴するような夫はもうごめんだった。トムは午(うま)年だと言っていたが、ジュリーもそうだった。もっとも、2回り(24歳)違っていた。もう90歳を越しているトムの母親も午年だが、なお実家近くの病院でボランチアとして週に2、3回働いているそうで、とても健康そうだった。だから恐らく、トムも百歳近くまで生きるかもしれない。母親からいわゆる「長生きの遺伝子(あるいは秘訣)」を伝授されているようだから。

もっともジュリーは結婚生活にはもう興味がなかった。結婚生活には自由がない。ジュリーには、制約のない自由な恋愛生活が理想だった。愛し合う人と生活を共にする「同棲」というスタイルがジュリーにとっても、トムにとっても理想のようだった。実は、トムはずっと昔、一度結婚したことがあるが、妻と一緒に生活できたのはわずか半年だけだったそうだ。カルフォルニアからメルボルンに単身赴任して以来、20年近く独身生活を続けざるをえなかった。妻がカルフォルニアの自宅を離れようとしなかったからだ。だから、トムは「結婚」という法的関係(あるいは制度)にすっかり幻滅し、結局、妻との合意で離婚手続きを済ませたそうだ。


その3 ジュリーの家

そんなわけで、トムと長らく同居する娘夫婦リンダとエリックは、実際にはトムと血縁関係は全くなく、リンダは前妻の娘(トムの継子)の一人に過ぎなかった。リンダには、2人の頭脳明晰な兄弟がいた。兄ボビーは米国のボストンに独りで住み、弟クリスは英国のケンブリッジに妻と2人の子供と住んでいた。2人共学者で、ボビーは政治学、クリスは数学を各々の大学で教えていた。リンダも母親譲りの頭の良い娘だったが、集中力が散慢で、学問は苦手だった。リンダはすこぶる社交的で、物事を余り深く考えることよりも、浅く広く種々雑多な人間関係に携わることが得意で、かつ大好きだった。

さて、リンダには2つの悩みがあった。1つは子供が一人もいないことだった。トムはリンダに養子(あるいは養女)をもらったらどうかと勧めてみたが、リンダには気乗りがしないようだった。もう1つは、トムやエリックと一緒に住んでいる自宅の陽当りが余り良くないことだった。リンダの生まれた所は、赤道直下のガーナ共和国だった。アフリカ諸国の中で当時、最も早く英国から独立した国だった。両親と3年ほど、この常夏の国で育ったので、太陽が一杯の暑い気候が大好きだった。メルボルンにある自宅には、あいにく冬暖かい(太陽がさんさんと照る)北向きの部屋がなかった。そこで、近くに北向きの部屋がある2階屋を一軒、数年前に夫婦で買ったが、トムもエリックもそこヘ引っ越すことに気乗りがしなかった。自宅にくらべて、特に特徴のない、かなりみすぼらしい(見劣りする)家だからだ。そこで、その家はその後ずっと貸家になっていた。

しかしながら、リンダはなかなか諦めなかった。何とかして、その陽当りのよい家に引っ越すチャンスを狙っていた。年寄りのトムが若いジュリーと仲良くなり始めたことは、リンダにとって歓迎すべきニュースだった。もし、ジュリーや独り息子デビッドがトムと一緒に、彼女の店の近所にあるこの陽当りの悪い家に住むようになれば、リンダの気さくな夫エリックも、妻の要望に従って、あの陽当りの良い家に引っ越すことに同意してくれるかもしれないからだ。そこで、リンダはできるだけ早くジュリーを、自宅のお茶に呼ぶチャンスを見つけようとあせっていた。

だが、トムにはさほど急ぐべき理由はなかった。だから、トムには彼女をお茶に誘う気配などいっこうに感じられなかった。2か月にいっぺん、散髪に寄った折に、公園かどこかで午後をジュリーと一緒に過ごせれば、それで十分だった。

ある秋も深まった月曜日、朝から雨模様だった。昼過ぎトムは例の店で散髪をしてもらっていた。
「今日は一日中雨で、公園の散歩はどうやら無理のようですね」
「そうですね、もしよかったら、今日の午後は私の家にいらっしゃいませんか? 簡単に何か料理をしましょう」
「そうですか、それでは、お言葉に甘えて、お邪魔しましょうか」
店の近くで、ちょっと買物を済ませてから、ジュリーはトムを脇に乗せ、郊外にある自分の家へ向かって車を走らせた。道々トムは初めて訪ねるジュリーの家の様子を様々に想像した。

やがて、ある一軒屋の前で車が止まった。
「ここです。私どもの家は」
比較的新しい木造の大きな平屋で、かなり広い庭があった。
「すてきな家ですね。子供さんを育てるのに良い場所ですね」
「ええ、でも息子がもう大きくなって、大学から遠いので通学に不便だとこぼしています」
「あなたの店の近くに引っ越せば、バスで大学まで直通、あるいは徒歩でも通学できる距離ですから、ずっと便利になるでしょうね」
「でも、あの辺は地価が高いので、今の乏しい収入では、家を買うのはとても大変です。息子が稼ぐようになるまで、少なくとも数年は無理でしょう」

玄関を入ると直ぐ正面に広い居間があり、その奥に板張りの台所があった。廊下を隔てて、右手に寝室らしい部屋が2つほどあった。トムは台所にあるテーブルの前に座って、ジュリーが料理する後ろ姿を眺めていた。
「ふだん、ランチにはどんな物を食べていますか?」
とジュリーが訊いた。
「勤めていたころは、大学病院の食堂でパスタなどを食べていましたが、最近退職してからは、自宅でイングリッシュ・マフィンと牛乳で簡単に済ませています」
「まあ、ずいぶん粗食ですね。今日はもう少し鱈(たら)腹食べていって下さいね」
「ありがとうございます! 私は色々な麺類とパスタなどが好きです。どうやら、おいしそうなラーメンの匂いがしてきましたね」
「サッポロ風の味噌ラーメンを作っています。今日は雨模様でかなり寒いですから、ホカホカあったかい物がいいでしょう」

やがてテーブルに出された湯気の立つラーメンには、トムの大好物である白い豆腐とほうれんそう、わかめや椎茸類がどっさり入っていた。久し振りにご馳走にありついて、トムはごまんこつ(幸せ)だった。ジュリーもトムの満足そうな顔をみながら、幸せな気分にひたった。その昔、息子デビッドが生まれる前に、夫ピーターとこんなすばらしいひとときを過ごしたことをふっと思い出しながら。。。

食事の片づけを手伝ったのち、トムは居間にあるソーファーに深々と腰かけた。ジュリーが近付いてきた。とっさにトムは言った。
「どうぞ、私の膝の上にちょっと腰かけて下さい。肩をおもみしますから」
「あらそう、助かるは。散髪の仕事は肩がこるのよ。息子が時々肩をもんでくれるんだけど」
ジュリーの体温がトムの膝にじんわり伝わってきた。悪くない感蝕だ。そして、ジュリーの髪や首の辺りから、ほのかな香水の香りがしてきた。うっとりしながら、トムはジュリーの肩に両手をそっと乗せて、ゆっくりもみ始めた。軽く強く、また軽く強く。

「トム、とっても良い心持ちよ。でも、この辺りもちょっともんでもらえるともっと気持ちいいんだけれど」
ジュリーはそう言いながら、トムの片手を軽くつかんで、自分の胸に当てた。「とうとうお呼びが来た」とトムは秘かに喜んだ。彼女の両胸のふくらみに手を被うように広げ、やんわりと2、3度もんだ。それから、彼女のTシャツの裾から両手を忍び入れ、直に乳房をつかんでから、少し固くなりつつある乳頭を軽くつまんでみた。
「ああ、もっと続けて」とジュリーがあえいだ。

トムは乳房を大きくつかんではゆるめ、親指と人差指で乳頭をころばせた。ジュリーの額や首筋に汗がにじみ出ると、トムの手の平も汗ばみ始めた。思わずトムはジュリーのくちびるに軽いキスをした。すると、ジュリーがトムの首に両手を回して、熱っぽい長いキスを返してきた。トムは満身の力で、やや小柄なジュリーの身体を腕に抱きかかえ、奥にあるジュリーの寝室に運んでいった。

ふと目がさめると、トムはジュリーとベッドの中にいた。腕時計の針はもう4時半を指していた。デビッドがまもなく大学から帰宅するはずの時間だった。トムはあわててベッドから飛び出し、Yシャツやズボンを身につけ、ジュリーを起こした。
「ジュリー、大変だ! 息子さんがもうすぐ戻ってきますよ」

雨はすでに止んでいた。急いで身繕いしたジュリーは車のエンジンをかけるなり、トムを最寄りの電車の停留所まで、送ってくれた。やがて、メルボルン行きの電車がホームに入ってきた。すれ違いに、メルボルン発の電車がホームに入り、列車から降りてくるデビッドの姿が、ジュリーの目に入った。間一髪だった!

続く